雲のむこう、約束の場所
子どものころ、うそばかりついていたように思う。
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ぼくは大人になって、少なくとも子どものころよりは正直者になった。
いやいや、今でもぼくはよくうそをつくし、そのことにそれほど罪の意識を持っていない。ただたとえば、うそは、時に「正直な言葉」よりも雄弁に、ぼくの考えを伝えてしまうことがある。
或いは、事実を都合よく書き換えるためであるはずのうそが、時にぼくにとって、事実を受け入れることよりも面倒なことを招いたりもする。
だからぼくは、別に性根を入れ替えたわけではない。ただ、うそのつきどころやつき方を経験とともに体得してきたのだ。
ぼくはよくうそをつく子どもだったし、今も相変わらず、うそばかりついている大人だ。
うその中身の方は、あの頃とはずいぶん変わったかもしれない。
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「雲のむこう、約束の場所」(新海誠・2004年)を見た。
・絵
2019年の夏に見る限りでは、特に感想はない。
極端なレイアウトやレンズが印象的で、これはもちろん庵野秀明監督の影響もあるだろうが、リソースの少なさをカバーしようとする試みであるように見える。
実際、序盤に散見される「アニメーション的に王道」な画面(走り寄る佐由理の足元、スケートをする浩紀)は、後半になるにつれて減ってゆき、画面の動きが少なくなる。
それは、登場人物やセリフに集中させるという演出的な目的以上に、作業量の少ない代わりにセンスと知識を要求される「レイアウトで勝負する映像」へのシフトではなかろうか。
前作「ほしのこえ」(2002年)は、下北沢の小劇場で観た。Flash動画華やかなりしころ、確か何かのコンテストで賞を取ったという触れ込みで、その当時ですら「たった一人でこんな映画を作るなんてすごい」という但し書き付きの称賛をされていたように思う。画面を構成する要素のひとつひとつは決してリッチではなかったし、それは2年後に発表された「雲の向こう」でも大きく進歩はしていない。
だからこそ、アニメというよりは実相寺アングル的な極端なレイアウト(と、その並べ方)で画面に強弱を出して画をもたせる、という方針に辿り着いたのかもしれない。
これを「ルックを持った良い映像」とするのか、「不自然で陳腐な絵作り」とするのかは、それはもう趣味の領域であると思う。ぼくは好きだ。
そして、2019年のいま見ても古臭く感じない、ということは、何より新海監督の持つ絵作りのセンスの良さをよく示していると思う。
・音楽
天門氏による劇伴。
これについては、前作「ほしのこえ」オリジナルサウンドトラック(下北沢の劇場で観た直後に買った)のライナーノーツに書いてあった新海監督の言葉に尽きると思う。
「天門氏による音楽がなければ、この作品はもっと散漫な映像になっていたでしょう」(うろ覚え)。
これは、ぼく自身の経験からも腑に落ちる言葉だ。
作品に音楽が付くと、見えているものは同じでも、本当にガラっと変わってしまう。
もし僕の感想を付け加えるならば、過不足のない、シンプルな、とてもいい劇伴だと思う。
・ストーリー
この作品が難解であるとか、陰鬱であるとかという評価が、はじめは信じられなかった。
テーマは蝦夷の中心にもポスターの中心にも物語の中心にも登場人物たちの心中の中心にも、ともかくこれでもかと分かりやすく提示されている。エンディングもまったく陰鬱には感じない。あのふたりはその後別々の人生を歩み始めるだろうし、再序盤に登場する大人になった浩紀の横に佐由理はいない。それはごく自然なことで、悲しいことではない。
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ところでこの映画には、素朴なうそが登場する。
その最たるものは、「白くてきれいな飛行機」ヴェラシーラと、約束だ。
あの飛行機は飛べない。
これがファンタジー世界を舞台にした、レイノルズ数クソくらえの物語であったならば話は違う。
しかし、浩紀たちの物語とは全く別に存在する、大人たちによる戦争では、ごく当たり前にF-15がAAM-4を発射している。だから、作品世界ではヴェラシーラは飛べない。
すなわち浩紀と拓也は、佐由理をヴェラシーラに乗せてユニオンの塔まで飛ぶことはない。し、そもそもヴェラシーラは2人乗りの飛行機である。
浩紀も拓也も佐由理も、そんなことはよくよく分かっていて、中学3年生の夏休みをかけてヴェラシーラを作って、そういう約束を交わした。
ヴェラシーラが飛んだその瞬間、塔の役割は終わる。
佐由理は何を失うのかが分かったと言った。分かった時にはもう失っている。
約束も、「今は遠いあの日々」のできごとのひとつになる。
災厄と化してしまった塔を破壊して、物語は終わる。
シンプルで余計なもののない、いい映画だと思う。